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【リレーエッセイ】「54歳になって見えた心からの感謝」/2016年12月1日発行

更新日:2016/12/01

筆者

和田 実菜子さん

「54歳になって見えた心からの感謝」

 私の生まれ育ったところは横浜市。大正11年生れの父は、もと海軍兵で、戦地では弾丸が左耳の横を飛んだ経験もあり、生きるか死ぬかの瀬戸際で戦っていたそうだ。そんな父は、毎晩のようにお酒を飲んでは母に大声で怒鳴ったり手を上げたりしていた。私は母に手を上げる父は大嫌い。母は長男の嫁で、ちょっとのんびり屋(悪く言うと、とろい)でそこが気に入らないのか、母に対して父は「ぐず、とろくさい」とよく言っていた。そう言われる母は、父と同様、私もとろくさく何もできない人と思っていた。同居の祖母も躾が厳しい人。小姑も嫌な人。と私の周りはみんな嫌な人ばかりだった。そんな状況が嫌で逃げて来たのかもしれない。

 私は遠い高知に嫁いだ。4年前、なんとなく導かれるように自分を高める講座を受講し始めた。その頃から周りのことをよく考えるようになり、父、家族の事を深く考えるようになった。24年前にその父が亡くなった時のことを思い出した。

 実は父には愛人がいた。しかも、認知した娘が2人。遺産相続でも遺産の権利を主張、分骨もした。よくよく父を思い出してみた。まず、酔って母に罵倒を浴びせ手をあげている光景と、私が三歳位で父に肩車をされ、公園で遊んでいる楽しかった光景が浮かんできた。そうだ、愛人に父をとられたんだ。私たちの幸せを奪い不幸にしたんだ。父のことが嫌いだったらそんな言葉は出ない。本当は、本音は、父の事は大好きだったんだ。

 お葬式の時の様子も鮮明に覚えている。退職から時間が経ってからの葬儀で、ほとんど人は来ないと思っていた。始まると、次から次へと会葬者がやってくる。こんなに沢山の方々が父の為に来てくれたことが嬉しくて嬉しくて涙が止まらなかった。とても信頼されていたし、友達も多く、外では相当な気遣いをしていたのだろう。家では日頃の我慢を母だけにぶつけ、私達娘には手をあげなかった。どんな時も受け止めてくれていたが、1度だけ中学生の時、言いたい放題言っていて、はたかれた。絶対、手をあげないと思っていたから驚いた。それ位、甘えさせてくれ、受け止めてくれたとても優しい父。もっと話をすれば良かった。もっと感謝を伝えればよかった。

 幸せを奪った愛人には恨みしかなかった。あの人がいたから家の中が不幸になったと思っていた。その娘たちを見た時、とても穏やかな顔つきだった。愛人のことも考えて見た。愛人の立場で、子供ができた時、人生の選択で「産む」を選んだこと。これは凄い、私にはできなかった選択。実は私は、主人の前に付き合っていた彼の子をこの世に出せていない。その頃の私には一人で育てることなど全く考えられなかった。まだ結婚できないと告げられ、中絶を選んだ。女手ひとつで育てていくことは並大抵な事ではないが、今では愛人の孫が4人。私といえば、深く考えずに目の前の事をこなすだけに必死で、面倒くさいことは見ようとせず、嫌なことは周りのせいにしていた。

 やっと今、周りの方々のおかげで私が活かされていることがわかった。父、母、祖母、そして愛人、楽しいことも、苦しいことも、ご先祖様も何一つ欠けても今の私はない。こんな奇跡の命を生み育ててくれた母、とっても優しく抱擁力のある父。本当に本当にありがとう…。
  54歳で、初めて見えた心からの感謝。私はこれから心から感謝ができる人をひとりでも多く増やしていく。これが私の使命と感じている。




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