2014年4月1日発行メールマガジンより
更新日:2014/06/02
今回のエッセイは、高知新聞社編集委員の又川晃世さんからのバトンです♪
筆者
帽子デザイナー 山本正子さん
「ダァーの世界」
私が生まれ育った沖縄に「ダァー」と云う短い言葉があります。
何か欲しい時、こっちに早く渡して欲しい時などに使います。例えばお母さんに「お菓子、頂戴。」と言っても一向にくれない時に「ダァー」「ダァー」と言って要求します。
囲碁が大好きだった父が、盤上に目をむけたまま、手のひらを上にして静かに「ダァー」。-その手のポーズは孫悟空を手のひらに乗せたお釈迦様のよう。すると母は父が望む、お茶や、当時吸っていたタバコなどを持ってきます。
何が欲しいのか父は言いません。幼い私は「ダァー」の一言でよく分るものだと、不思議で母に尋ねたことがありました。すると母はちょっと微笑んで「見ていたら、何が欲しいかわかるわよ。」と事もなげに言いました。
100歳まで生きた母は、夫婦とはこういうものだと淡々と生活していました。しかし、母は、ただかしずくような女性ではなかったように思います。
沖縄の婦人参政権は、アメリカの統治下にあったため、本土より少し早い1945年9月から。そして「本土国民と同等の参政権」「日本国政への参政権」は、男女とも、なんと1970年からでした。この時、私は中学生でした。母が父に珍しく意見を言ったので、両親のやり取りを鮮明に覚えています。
私は両親が喧嘩をしている姿を一度も見たことがありません。父も温厚でしたが、それは、母の「忍」の一字に負うところが大きかったのです。その母が父に反旗・・・。
朝食を終えた食卓で、父が母に「選挙は○○さんに。」と。すると母が「いいえ、私はちゃんと決めている人がいます。」と。まるで、「結婚相手がいます。」というようなフレーズで拒否。「誰に投票するつもりだ?」と父が問うと、母は「投票する人は他言してはいけないのです!」ときっぱり。父は苦笑いして、それ以上何も言いませんでした。
1912年に生まれた母は、33歳で婦人参政権を得て初めて投票し、58歳にして「日本人」として国政選挙権を獲得したのです。母にとっても、待ちに待った重大な出来事だったのでしょう。私は時折忘れて投票せずに、出張に行ってしまうことを、このことを思い出し、猛反しています。
さて、高知には明治時代「戸主がどうして選挙権がないのか。」と訴えた女性がいました。御主人に先立たれた楠瀬喜多さん。私は高知に移住し初めて知った土佐の偉人です。
「義務と権利は両立するのが道理」と訴え、世界で2番目の女性参政権を得ますが、4年後には元のように婦人は選挙から、排除されてしまいます。
為政者の政策でどのようにでも変わることを肝に銘じずにはおれません。
私たちの選挙権は、古の先輩たちが戦って勝ち得てくれたものです。
それは「ダァー」と言って、すぐ手のひらに乗せてもらえる代物ではないのですから、権利として大切に扱っていきたいと思います。