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2014年5月1日発行メールマガジンより

更新日:2017/03/08

今回のエッセイは、帽子デザイナーの山本正子さんからのバトンです♪

筆者

フリーライター 広末智子さん

「二人の父」

 私には二人の父がいる(と思っている)。一人はもちろん、実の父だ。三人姉妹の中でも手の掛からない子どもだった(はず)長女の私が、四十も半ばにして会社も辞め、こんな落ち着かない日々を送るようになるとは、父は思ってもみなかっただろう。しかし、私がこれまでの人生で苦境に立たされるたび、何を言わなくても私の気持ちをいちばんに理解し、何も言わないからこそ、心の底から心配してくれているのが伝わってくるのがこの父だった。母にも感謝しているが、不器用で言葉の少ない父だからこそ、いつでも私の味方でいてくれるのが有り難かった。

 晴れの日にはビールを美味しそうに飲みながら、鼻を膨らませて喜んでくれた。高校や大学入学、就職、結婚、そして娘の誕生‥と、私にも父を喜ばせる瞬間があったことは今となってみれば本当に良かった、と思う。だが申し訳ないことに、私はこの人のいい父をたくさん悲しませてしまった。特に結婚の失敗による、私にとってはそうするよりほかなかった離婚、そして仕事で手一杯だった私に代わり、一緒に育ててくれた孫娘の不登校にはじまる荒んだ日々‥。私を心配してくれる以上に、孫娘の辛さに寄り添ってくれたのも父だ。中卒で職人一筋できた父は学歴の無さをコンプレックスに思っているようだが、そんなことなんの問題もない。私はこの父が好きなのだ。

 忘れもしない。不登校のさなかにあった娘の中学の修学旅行。「行きたくない」と言っても心の隅には行きたい気持ちがあるのかもしれない、親として行かせてあげるべきなのか。悩んだ末、学校側の「当日の朝、みんなと一緒にバスで行かなくてもいいので空港まで連れて来てあげてもらえませんか」という申し出に、父の運転で娘を送って行った。高知空港ではなく高松空港へだ。道中、明るい話をして気持ちを紛らわせたが、空港に着いた途端、震え始めた娘を前に、父と二人、おろおろと顔を見合わせるしかなかった。それでも出発ゲートで「後は任せてください」という担任の言葉を信じて送り出したものの、飛行機が沖縄に向けて飛び立つまで、父と一緒に屋上からいつまでも見ていた。飛行機が小さく小さくなり、やがて消えてなくなるまで。あの時、沖縄に行かせて良かったのかどうか、今でも分からないが、あの朝、娘の乗った飛行機がついに見えなくなって二人とも無言で車に乗り、讃岐うどんをすすって高知にとんぼ帰りした、あんな思いは二度と父にはさせたくない。

 多大な心労を掛けてしまった(今も掛け続けている)のはもう一人の父も同じだ。もっとも世間一般には「父」と言ってはいけないのかもしれない。正確に言うと、「元舅」だからだ。

 この父にも私は本当に感謝している。小学校長まで勤め上げたにも関わらず、全くもって先生らしくない気さくな人柄で、人望厚く、誰からも好かれる。娘が小学校に上がっても私が会社で働き続けるには、夫の実家のすぐ近くに家を建てるしかなく、娘の小学生時代はほとんどを義父母の世話になった。それでも離婚の選択をするしかなかった私たち。荷物をまとめ、家を出て行く私と娘を見送る父の悲しそうな顔が見えるようで、胸が締め付けられた。

 しかし、離婚しても娘にとっては永遠に祖父母であり、私と父のつながりも、あの日からもう8年近く経つ今もかえって深くなっているように感じている。私が元の家に置いていくしかなかった大きな愛犬を朝に晩に散歩させてくれているのも父だ。

 娘の不安定な心は大学生になった今も変わらず、両両親の支えがなければ、私はきっと1人倒れていただろう。離婚しているのにいつまでも昔の嫁ぎ先とつながりがあるのはおかしい、それじゃあ前に進めんで、と人に言われることもあるが、聞き流している。今の時代、本当にいろんな家族、人と人とのつながりがある。今の私にとって「お父さん」と呼べるのはやっぱり、実の父と、元舅、この二人なのだ。




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